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 今年度、創立百周年を迎え、『本荘高校百年史』も刊行されました。その中に、次のような文章があります。

 『人間性の教育は、単なるシステムの中で培われるものではない。今後の進路指導の、いや学校のめざすものとして、大学入試への学力向上にとどまらず、真の教養を身につけた個性豊かな人間、地域社会のリーダー、ひいては国際社会に貢献する存在としての本高生はどうあるべきか、一人一人が雄飛する土台としての本荘高校はどうあるべきか、本当に問われるのは、この百年を刻む今なのであろう』

 創立百周年という記念すべき大きな節目を迎えている今、われわれは往時を回顧するだけでなく、二十一世紀にふさわしい新生本荘高校を創造することも同時に課せられているのではないでしょうか。そこで、「白玲瓏」編集委員会では、百周年にあたり「本高進路」に焦点を絞り、在校生・卒業生・地元の方との座談会を企画しました。それは、地元の期待と現実との葛藤を最も抱えているのが「進路」ではないかと感じ、この葛藤を少しでも解き放ち、今後の指針になればと思ったからです。

司 会 本日はお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。まずは、自己紹介をお願いします。

工 藤 工藤勇と申します。本高四十四期生で、昭和二十四年の卒業です。ちょうど中学三年の時に戦争が終わりまして、最初の新制高校生として卒業いたしました。本荘高校には昭和三十一年から三十三年までが定時制の下川大内分校、そして三十三年から四十四年まで、あと四十九年から六十三年までですか。その後、定時制におりまして、平成二年に定年退職しました。『八十年史』の方では江幡勝一郎先生が編集長をされたのですが、その下で若干の担当を果たしました。ちょうど戦後の高校の出発の頃を書けということで、その頃を書いたわけです。あと、後半の本荘高校の教師としては、十一年間ボート部の顧問をしておりました。今回百周年を記念するということで、『ボート百周年』も出しまして、そちらの編集の責任も何とか果たしたところです。

佐々木 工藤先生のちょうど十年後輩の佐々木です。私が本荘高校にいたときは工藤先生が教師をされていました。ちょうど十年後輩ですので、昭和三十四年卒です。八十周年を前に、本荘高校に勤務することになりまして、通算三十一年間お世話になりました。部活の方では工藤先生と一緒にバレーボールをやっておりました。その後、二回目の甲子園が終わったあと、突如硬式野球部をやれということで、今も硬式野球の後援会に入っております。野球部は十月五日前日、全国に知らせを出して百周年記念会を行いました。学校の式典とはまた違った形で、懐かしさとか楽しさとか、そういうところが出てよかったです。

鎌 田 鎌田です。駅の裏のカルチャーステーションヤマサの店長をしています。同じ会社としてジョイフルシティもやっていて、その関係で今まで全然足を踏み入れたことのない本荘市に、二十一年前にやってきました。途中で私どものジョイフルシティが男鹿の方に支店を作りまして、一時男鹿へ行きましたが、五年ほど前に、また戻って参りました。私は全くここの地域の出身ではないのですが、また違った視点からお話しできたらと思います。

長谷川 三年F組の長谷川知亮です。生徒会では生徒会長をしていました。家は西目町で、ぼくの父と祖父も本荘高校出身です。本荘高校に入学したのは、昔から父方と母方両方の祖父によく「本荘高校いいから行きなさい」と言われていて、それにひいおばあちゃんの最後の言葉は「本荘高校行けよ!」だったので(笑)。自分が百周年という節目に在学できて、とてもうれしいと思ったし、OBの方々と話せるのを楽しみにしてきました。

花 島 三年G組の花島宏実です。もう任期は終わってしまったのですが、生徒会の副会長をやっていました。母、いとこ、姉が本荘高校卒で現在妹も在学しています。今回百周年ということで、ミネハハアカデミーに行かせてもらい、とてもいい経験をしてきました。今日は本荘高校で過ごしている一人として意見を言いたいと思います。よろしくお願いします。

  橋 三年C組の高橋健一です。僕も任期は終わりましたが、生徒会の副会長をやっていました。自分の父が本荘高校卒です。なぜ本荘高校に入学したのかというと、やはり本荘・由利地区では進学校だったし、話を聞く中で一番心に残っているのは十円パンで、おもしろそうだと思いました。今日は、時々先生方から聞かされる進学校のイメージと、自分のもつイメージが違いますので、その点を先輩方と話し合っていければと思います。

祐 弥 三年H組の佐々木祐弥です。生徒会では会計をやっていました。家業を継ぎたいと思ったので、本荘高校の商業科を選択しました。生徒会は始めてで、何も分からなかったのですが、みんなと楽しくできてよかったと思います。よろしくお願いします。

司 会 『八十年史』、そして『百年史』を読んでみると、地元の期待と現実との葛藤、それが、最も伝わってくるのが、「進路」と感じました。そこで、この座談会では葛藤を少しでも解き放ち、今後の指針になればと思い、「本高進路」を考えていきたいと思います。まずは生徒のみなさん、今現在進路選択で何を考えているか、話して下さい。

長谷川 自分の行きたい学部は社会科学系で、政治経済を中心に学びたいと思っています。今月の二十七日にAO入試がありますので、その論文試験の準備を今しているところです。一年間生徒会をやってきて行事が続いたもので、まわりほどゆっくり勉強する時間がとれなかったのですが、だからこそ学べたのだと思います。かっこいい言葉でいうと「人生の糧」は人より多く得てきたと思うし、その中でいろいろな知識を増やせたのは自分にとってよかったと思います。将来は漠然とした分野ですが、政治経済を勉強したいです。世界のニュースと、地域のニュースはめざしているところが両方違っていると思います。グローバルな視点から、かつローカルな視点から、多角的に物事を見ていきたいと思います。

花 島 私は中学の頃から英語が好きで、ALTの先生と積極的に話すようにしてきました。今は漠然としていますが、英語だけではなくほかの言語も学んで、将来はその言語を通じて人々と接するようなことができたらと思います。そういった面で、今回、ミネハハアカデミーの生徒と接する中で、言葉はほとんど速くて理解できなかったのですが、言葉は通じなくてもやっぱり同じ人間で、理解できることはありました。それを強く感じることができて、とてもいい経験になりました。この経験を通じて、やっぱり国際系に進みたいという気持ちが強くなったので、今は国際系学部を目指しています。

  橋 ぼくは第一志望は情報工学です。将来的にはゲーム・コンピューター系の仕事につければよいと思っています。今IT不況で、これから先、情報技術が進歩しなくなるとも言われていますが、これを解決する、というテーマで大学の先生の話を聞く機会があり、ますます情報について学びたいという意欲がわいてきました。

祐 弥 ぼくは経営について学びたいと思っています。先ほど言ったとおり、家業を継ぎたいというのが、その理由です。家では今税理士にお願いしていますが、そういったことを自分で管理する力がほしいと思いました。

司 会 ここで視点を変えます。進路を選択するというのは、本荘高校と何らかの関わりがあると思います。自分の進路選択に本荘高校はどんな場でしたか。

長谷川 入学して一番先に感じたのが、「ここは違うんだな」ということでした。小中の時とは違い、いろいろな人と出会えたと思います。生徒会を通して高校単位で他校の人たちと出会えたというのもあるし・・。それから、他の高校はわからないけれども、本荘高校はおもしろいと思います。それは、自分で考えつかないこと、自分の気づかなかったところを指摘してくれる人もたくさんいるし、そうやって磨き合っていける場が三年間あったから、これからどうしていこうか決める、つまり政治経済を学びたいというのを決めることができたのだと思います。

花 島 私は中学の時から大学に行きたいと考えていたし、英語の方に進みたいとも考えていたので、高校で進路を決めたわけではないのですが、高校に入ってみて、いろいろな人がいて楽しくて、普段は勉強しようという感じではなかったのですが、いざテスト前になり、まわりの雰囲気、勉強しようとする友だちの雰囲気が自分を盛り上げてくれると感じました。自分より成績のいい人はたくさんいるし、彼らに追いつきたいという気持ちができるので、その分自分で勉強しようと思うし、そういう面でがんばろうという気持ちを起こさせてくれたのは本荘高校の環境で、友だちや先生方のおかげだと思います。

  橋 ぼくの場合は、情報工学を志望しているんですけれども、中学まではただ漠然とコンピューター関係の進路がいいと思っていました。高校では目指すところが人それぞれ違うし、より社会人に近くなった気がします。友人と将来について話し合えるようになって、高めあうことができたのは本荘高校の環境のおかげだとはっきり言えますね。

祐 弥 ぼくは商業科に入学し、すごく興味がわき、これならおもしろく勉強ができると感じて、経営を目指すようになりました。クラスは三年間いっしょで、その中で友人と進路などについて話し合えたことが、自分には新しい発見でした。

司 会 高校には教員もいるわけです。教員であれば、生徒の進路を是非実現してあげたいと思うわけです。

 例えば『八十年史』から、それぞれの時代の姿を読みとることができます。

 昭和四十一年の頃、

 『一学級当たり五十六,七名の生徒数で授業の面で期待された伸びがみられなかったことなど、もろもろの悪条件が重なり競合したためであって、この年次の生徒を責めることはできない。ところがとかく世間はすぐにこれを「本荘高校はだめだ」「本荘高校の進学指導はなっていない」という評価をくだしてしまい、・・」

 その後、

 『文理あわせたトップ・クラスの設置、五回の校内実力テストの実施と上位者の発表、校外模試への積極的参加、補習授業の強化、参考書指導も含めた個人指導の徹底、学習習慣を身につけさせるための生活指導、家庭訪問の強化など、進学指導の一つの型ができあがっていた』

 その一方で、昭和四十七年三年某組の「学級日誌」には、

 『きょうも一日非常に忙しかったが、多忙である事によって我々は何かをやりつつあるという錯覚をもつのではないか。多忙こそ現代における怠惰の一形式ではなかろうか』

 こうした、その時その時の試行錯誤の延長線上に、今日の状況があると思います。それでは、今までの発言をもとに今回のテーマである、「本高進路」を考えていきたいと思います。

鎌 田 私は昭和四十八年に横手高校を卒業し、野球部に入っていました。横手高校では当時在学生の三割が下宿をしていました。みなさん、一年生の最初の頃、放課後に集まれといって応援歌練習させられるでしょう。カルチャーショックですよね。それと同じように、私も下宿に入っていたんですが、やっぱりカルチャーショックを受けたんです。何でかっていうと、三年生っていかに勉強するのか。隣の部屋で勉強しているわけですよ。恐ろしいだけ勉強してるんですよ。ここで大きなカルチャーショックを受けるんです。これは横手高校の進学を支えているものかと思います。下宿以外の人も勉強する姿を見て、自然と熱が入ってくる。そういうところが、結果的には伝統になっていたのではないかと思います。学年を横断した企画が在学中にあるといいのではないでしょうか。一年も三年も、勉強する起爆剤になりうると思います。

司 会 学年を越えたつながりを大切にしていく、ということですね。

鎌 田 でも、横手高校からすると本荘高校はうらやましいですよ。私は横手高校OBですが、野球は一回甲子園に出ましたけれども、あまりぱっとしないんですよ。でも、本荘高校はボート部も全国制覇しているし、野球部も全国のトップをうかがっています。その自信をもっと持ってほしいと思います。アルバイトで勤務している本高卒業生から受ける印象からすると、少しおとなしい。

司 会 佐々木先生、今、話をした中で感じたところを話して下さい。

佐々木 本当に自分の希望の実現に一生をかけていくのか、これは別に大学受験とか就職ばかりではなくて、鎌田さんもおっしゃったように、ちょうど部活も同じなんですよね。その覚悟が本当にあるのか、ないのか、部活も同じで全国一を目指すのか、いないのかで全く違う形が生まれてくるわけですよね。一浪二浪する覚悟があるのかが、一番大切なところではないかという感じですね。そこから何かが始まるんだと思う。

 今はコンピューターで偏差値が出てくるわけだけれど、でも偏差値で駄目でもね、担任とみんなとの間で、「よしいっちょいってこい!」っていうね、機械がはじき出すその可能性に、もっとこう、あいつは違うって担任がいうような性質が、そういうプラスアルファをいかに持つかっていうことだね。それでもさっきいったように、「いや先生、俺は一年浪人しようが二年浪人しようが俺は行く!」と、なったときにね、一人前になるような、夢にかける覚悟がね。

司 会 時に本荘高校は進学率に波がありますが、一人一人覚悟を持っていれば、たとえ一浪しても二浪してもいい、ということですね。

佐々木 もたなきゃいけない。

司 会 工藤先生はどのようにお考えですか。

工 藤 五年生の時に英語の先生として来たのが佐藤憲一先生で、元の本荘市長さんですけれども、その方の英語はさっぱりわからないけれども、脱線するといろいろな話をしてくれまして、なんか勉強というのはしなきゃいけないもんだなというぐらいのところで漠然と進学を考えた。もう一つが、戦争末期になり、東京はじめ大都会が空襲を受けて、焼け野原になっちゃうわけで、それに伴いまして、いわゆる疎開で、田舎に縁故のある人は、小学生や中学生などが父母のふるさとに帰ってきたのですね。その人々は、終戦後の立ち直りが早かったのです。なぜかというと結局本荘はふるさととはいっても、彼らにとっては仮のふるさとなので、長くいる必要はないし、いずれ都会に戻って自立しなくてはならないからです。その時何が必要かというと、やはり学校に入らなきゃいかんと。そういう意識が彼らはすごく強かったと思うんですよ。そこに私は非常に引っ張られる面があったんです。鎌田さんのおっしゃった横手高校の伝統と同じように、疎開の人たちが私に非常に大きな影響を与えたと思います。さきほどのみんなの話では、先生から進路について影響を受けて・・というのが一つも出てこなかったというのが非常に我が意を得たりと言いますか、今は頼りになる先生だけど、いつも頼っているわけではないと。むしろ自分と仲間たソで互いに刺激しあいながら決める、という心意気がよいのではないかと感じました。教師としては物足りないものの、その方がいいんじゃないかと思います。

 我々は、当時は誰も当てにならなかったので自分でやるしかなかった、それがかえってよかったのではないか。何しろ基準が揺らいだ時代だから、自分勝手をとことんやったと。あるものは野球、あるものはボートと、結局少年時代のエネルギーのありったけ発散したことが財産になっているのではないかと思います。本荘高校では七時間授業を行っていますが、それにのっとってやれる人はやれば財産になっていくでしょうし、その中でなおかつ生徒会にのめり込んだというあなた方には、かけがえのないものになると思います。とことん自分の夢に希望を託してやることが大事です。何かにとりつかれたようにやることが成功の秘訣なのではないでしょうか。

 それから、・百年史・で朝学習について言及されていますが、

 ・新しい方法に挑戦し、激しい動きを可能にしたのは、本荘高校生と共に歩み、若さの開花する喜びを一緒に味わいたいという担任集団の熱気であったといえないだろうか。師弟同行の言葉通り、生徒一人一人がクラス担任、教科担任と一体化していた時といえた。教科教室型からクラス固定型には戻ったが、各研究室やメディアには、ノートを持って添削指導を待つ生徒が列をなしていたものである。・

 つまり、燃えて一丸となってやることが大切です。やる気がなくては進学校といえども駄目なのではないだろうか。

佐々木 一番大切なのは、大学卒業後一人前にやっていけるかどうかだと思うんだね。一所懸命やった人にしか、本荘高校でやったことが何であったのかわからないんだよ。伝統とは何かといったときに、そのときに青春をかけてやったその人にしかわからない。個人から個人につながっていくことが伝統だと思うんだね。

鎌 田 私は実業の世界ですから、簡単にいえば利益を出すことを求められます。利益を結果をとにかく出さなくてはいけない。新入社員やアルバイトが入ってきたときは、基本的には環境主義です。私はその人間がどう働きやすいかの環境を私が作ってあげなくてはいけないと思うのです。学校の効果的なシステムは何なのか。今の高校生がやる気になるように、情報をシャワーのように流すことがよいと思います。情報を学校側で用意してやると生徒たちの意欲もわくと思うし、カルチャーショックを受ける環境を作ることになるニ思います。その中で生徒は自らカルチャーショックを求める、自分を作りあげていくといいのではないでしょうか。

長谷川 今日は、先輩方の話に少なからずカルチャーショックを覚えました。今年百周年ということで、いろいろ行事があり、その行事を通して本荘高校は伝統校なんだと感じてきた訳なんですが、そういう伝統を感じられる場とか、OBと話し合う機会とか、そういうのがないとなかなか伝統を実感できる場が少ないので、そういう場はもっと持っていきたいと思います。本荘高校は自分たちがどういう場にいて、これからどうやっていくのか実感できる場が必要だと思います。

  橋 今自分が倣っている先生方とは価値観が違うなあと感じるところなんですが、僕にとって進学校であるというのは結果であって、生徒は勉強して自分にあう大学があるから進学校なのであって、進学校だから大学に行くのではないのだと思っていたのですが、やる気があってこそ進学校といえるんだなあとわかってとてもよかったです。

司 会 今日は、どうもありがとうございました。