2000.1.14読売新聞 メディア時評

中西輝政氏 京都大学教授

「学力低下」と「ゆとり」
矛盾克服に中等教育重要

 私は、教壇に立ってかれこれ。一年年ほどにしかならず、そのほとんども大学生を相手に、特定の専門について教えるというものだった。しかし海外の大学での経験や国際関係を考え、また先進国の社会で教育がその国のありかたにどんな位置を占めているか、ということに関心をもってきた人間として、近年の日本における教育の問題にはことさら強い関心をもたざるを得ない。

 周知の通り、メディアを中心に、教育問題が大きな論議を呼び、国全体の将来にかかわる大問題として国民的関心事となっている。しかし私のように、必ずしも教育学の専門家ではないが末端の教育現場にあり、同時に国際的視野から国や社会全体のゆくえに教育がもつ意味を考え続けてきた者として、現在の教育論議、特にメディアにおけるそれについては常々、不満に感じることが多かった。そんな中で読売の社説、「「学力低下」乗り越え教育再建を」は、我が忘を得たり、との思いだった。

 「学力低下」問題については、すでに様々な指摘がなされ、問題意識も定着し始めている。しかし、そこで大切なことは単に、「ゆとり教育が学力低下を招いている」として、単線的な視点から「ゆとり教育」をヤリ主に挙げる論じ方が比較的多かった点だ。わが同における公共問題の論議では、しばしば視野が当面の問題に吸い寄せられ、問題の背後にある要因やかつて自分たちがどんな議論をしていたかを忘れて目の前の事態に対症療法的にのみ反応してしまうことが多い。さきの社説では七〇年代にさかのぼって、当時の「詰め込み教育」ヘの世論の批判や、それが「落ちこぼれ」や教育荒廃の一因だとされていたことを思い出させ、その上でこの「ゆとり」と「学力低下」のジレンマをどう克服するか、という大きな視点を提示する。

 私はつねづねある時代、ある国の教育が一つの体系性をもって効果を発揮しうるか否かは、中等教育が決定的に重要な意味をもつのでないかと考えてきた。日本の近代百数十年の歴史を考えてゆくと、人々の意識や行動、社会の雰囲気や国の方向にかかわる大きな流れに、善かれあしかれ重要な節目をもたらした大きな要因の一つは、中等教育のあり方に生じた変化だったのではないか。吉田茂に代表されるような明治前期に漢籍教育中心の精神形成をした世代と、旧制中学・実業学校が制度的に定着したそれ以後の世代の日本人との間には明らかな違いがあるし、それが大正末・昭和初期に日本に及ぼした影響は実は大変大きかった。

 また私のような戦後生まれの世代から見て、昭和ヒト桁生まれまでの旧制中学世代のもつ教養のある種の確かさは、不思議でならなかったことの一つだ。欧米を始め諸外国で効果をあげている大学教育の場を肌身で経験してみると、その要因の一つとして中等教育の決定的な重要さをしばしば痛感させられてきた。「学級崩壊」が問題となっているが、日本の初等教育が全体として何か決定的な問題を抱えているようには思えない。一方、大学教育はもちろん様々な観点から改革が必要であるが、それらはどちらかと言えば広い意味で技術的な問題と言える。中教審が昨年にまとめた「初等中等教育と高等教育の接続の改善について」の中間報告を読むと、結局、問題の焦点は中等教育にあることがわかる。

 「ゆとり」を重視すれば、大学教育の見地からは必ず「学力低下」が生じるのは避けがたい。そしてそれは日本全体として必ず国際関係上の問題となってはね返ってくる。「ゆとり」によってかえって授業に飽き足りなくなる子どもたちの権利と可能性をどう生かしてゆくべきか。これは日本の中等教育が直面し、そして社会全体の将来が大きくかかわってくる問題だと言える。グローバル化の進展と共に、大学教育においてもコンピューターや英会話能力、その他の実学志向が強まってくるのは一つの必然だが、その分、本来の学問水準は低下する可能性がある。結局、大学院に頼る前にまず「実学系」と「学術系」の機能分化の制度化が不可欠となってこよう。また中等教育にも、本格的に複線化の理念を取り入れない限り、「ゆとり」と「学力低下」の間に必ず起こる本質的ジレンマは決して解決しないはずだ。メディアはこのことをもっと考え、報道して欲しい。