北鹿新聞2001.7.16 文化欄

 

名曲「浜辺の歌」はとこしえに

−教科書継続採用に喜ぶ−

作左部勢策

 

 平成十四年度からスタートする、学校完全五日制の実施に伴う新学習指導要領に基づいて新たに使用される小。中学校及び高等学校の教科書(見本本)が、六月二十二日から各市町村教育委員会の教科書センターで展示された。展示は、七月十一日までとなっていた。

私は、こよなく音楽を愛好する者として、小・中学校の音楽教科書がどのような内容になっているかに大きな関心を持っていたので、早速、この教科書展示会に足を運んだ。

 

 それというのは、現行の中学校の音楽教科書の歌唱共通教材と鑑賞共通教材は、わが秋田の生んだ成田為三作曲の「浜辺の歌」や滝廉太郎作曲の「荒城の月」、山田耕筰作曲の「赤とんぼ」、中田章作曲の「早春賦」などの八曲である。ところが、このたびの新学習指導要領では、教科書の大綱化・弾力化を進める観点から、この「共通教材」の指定が廃止されることになったからである。この指定が廃止されることによって、これまで半世紀、一世紀にわたって、日本人の魂をうるおし、豊かな感性と情操とを培(つち)かい、育(はぐ)くんで来たこれらの名曲が、教科書から消え失せてしまうのではないかとの危惧の念を抱いたからである。

 事実、滝廉太郎にゆかりの大分県の竹田市では、このことを怖れて阿南馨市長を先頭に全市をあげて、《名曲「荒城の月」を21世紀に歌い継ごう竹田市実行委員会》を組織、結成し、「荒城の月」の音楽教科書ヘの継続採用の署名運動を起こし、県内外に広く呼びかけて実施したほか、音楽教科書出版の三社に対して、継続採用についての要望書の提出など、懸命積極的な運動を展開したことは、マスコミの大々的な報道により、全国民の大きな関心を呼んだことは、われわれの記憶にまだ新しい。

 さて、問題の音楽教科書であるが、私は目を皿にして注意深く調べた。中学校の音楽教科書出版社は、葛ウ育出版と葛ウ育芸術社の二社である。前者の教科書には、「浜辺の歌」、「荒城の月」、「早春賦」、中田喜直作曲の"夏がくれば思い出す"の「夏の思い出」、大中寅二作曲の,名も知らぬ遠き島より"の「椰子の実」が採用されている。後者の教科書には、「浜辺の歌」、「荒城の月」、「赤とんぼ」、「早春賦」、「夏の思い出」、中山晋平作曲の"海は荒海向うは佐渡よ"の「砂山」、園伊玖磨作曲の"七色の谷を越えて流れて行く風のリボン"の「花の街」、そして滝廉太郎の"春のうららの隅田川"の「花」の八曲である。注目に値するのは、滝廉太郎の作品が二曲採用されていることである。廉太郎ファンと、竹田市民のよろこびは、いかばかりであろうか。祝意を表したい。

 私は、これまでの音楽教科書に確固として定着していたこれらの名曲が、消え失せることなく、"安泰健在"であったことを確認できて何よりもうれしく喜んでいる。「ああ、よかった」と胸をなでおろし、晴れ晴れとした気持ちである。危惧の念は、紀憂(きゆう)に過ぎなかった。

 ところで、これらの名曲の中で、もっとも歴史の古いのは、滝廉太郎(一八七九年〜一九〇三年)の「花」(一九〇〇年)で、「荒城の月」(一九〇一年)がこれにつぐ。すでに一世紀もの長きにわたって、連綿と歌い継がれて来ていることは、まことに驚嘆に値する。名曲中の名曲たる所以(ゆえん)といえよう。中田章(一八八六年〜一九三一年)の「早春賦」(一九一三年)に続いて、わが秋田の誇りである成田為三(一八九三年〜一九四五年)の「浜辺の歌」が作曲されたのは、一九一六年、二十四歳で、この歌がセノウ音楽出版社から『セノウ楽譜98』として刊行されたのは、一九一八年、二十六歳のときである。中学校の音楽教科書に登場したのは、一九四七年で、為三が没して二年あとである。従って、歌誕生から今年で八十五年目に当たる。実に、一世紀に近い息の長い名曲として歌い親しまれて来たことになる。

 私は、かねがね、「浜辺の歌」と「荒城の月」は、音楽教科書を彩る双璧ではないかと思っている。「荒城の月」は、男性的で、土井晩翠の詩吟風の歌詞にマッチした旋律であるのに対して、「浜辺の歌」は女性的で、繊細優美このうえもない静かな旋律ではないかとの思いからである。しみじみとした情感を覚えさせる。この二つの歌は全く対照的である。

 私は、かつて、本荘市立図書館でお世話している、本荘市お母さんの読書会で発行の文集『さわらび』第三十一号に、"名曲「浜辺の歌」を讃えて"と題した文を寄稿したことがある。この中で、「私は、この『浜辺の歌』を聴くたびに、作曲家、成田為三は、この曲をどのような楽想、イメージからあみだし、五線に音待を埋め、記(しる)していったのであろうかという思いにかられることがある。これは、ひょっとすると、音楽家、成田為三を通しての、見えざる神の御手(みて)と深遠なる技(わざ)の霊妙から生まれ出たものではないかしら−と。私がこう思うのは、この気品に満ちた憧れの名曲は、余りにも優美、かつ清冽で、聴く者をして、人生追憶の情にいざなう魅力に富んでいるからである」と。この思いは、いまも持ち続けている。

 これまで、この名曲をうたい、聴いて来た何百万の日本人は、どれだけ心なごみ、純化され、人生の鼓舞を受けて来たであろうか。まさに、崇高な音楽からの慈愛の贈物といえる。

 この五月十七日、旅先の中国で急逝の現代日本の音楽界を代表する作曲家の、團伊玖磨氏は、成田為三を「学校唱歌の"貧弱低劣"を憤って、優れた歌を作ろうと真剣に考えた人達が、鈴木三重吉を中心に集まって起こした『赤い鳥』運動の中から生まれた幾つもの傑作が、その後の日本の子供の歌の方向を深める上で力があったが、集まった作曲家の中で、成田為三の名は、ことに特記されて良いと思う。」「子供の頃を思い出す。『浜辺の歌』は、たしかに普通の"唱歌"と違ってその流れるような旋律が美しく、子供の心をも捉えて離さなかった。成田為三という人は、メロディストとして、当時の人達の中で抜き出ていると思う。このメロディーは、セロやヴァイオリンで演奏された時の方が、歌詞のハンデォキャップを捨てる事が出来て、一段とその魅力を発揮するように思える。いつも歌詞に支えられてようやく成り立っていた日本の歌の中で"音楽"が独立出来るだけの魅力を持つものセ作ったという点が、成田為三の功績だった。」と高く評価している(傍点は、筆者)。「唄を忘れたかなりや」については、この歌も、メロディストであった作曲家の面目躍如たる曲であると絶讃している。為三にとって、この團氏の評言は"もって瞑すべし"といえよう。 「浜辺の歌」を愛し、成田為三を敬愛してやまない私は、同じ秋田県民の一人として、この評言には心底よりこみあげて来るうれしさと誇りとを禁じ得なかったのである。幼稚園、保育園児や小学校低学年の子供たちによって愛唱されている「ぞうさん」や中学生や女学生、ママさんコーラスで好んで取りあげられてうたわれている「花の街」の作曲家である、この團氏のご逝去を心から悼み、ご冥福をお祈りする者である。

 名曲「浜辺の歌」が教科書から消えることなく、従来通り、その特定席を確保したことの意義は大きく、よろこびに堪えない。この不朽の名曲が、多くの人々によって愛され、とこしえに歌い継がれていくことを私は、切にこいねがってやまないのである。

 

(季刊誌『北域』誌友。本荘中央公民館運営審議会委員、本荘市石脇甚八渕一〇−四)