2001.7.15毎日新聞 時代の風
山内昌之 東大教授

ポピュリズムの怖さ

痛みの責任市民が担う

戦後の日本においては長いこと、デモクラシーの社会における指導者や(官僚を含めた)エリートの資質について正面から論じられることがなかった。それどころか最近の日本政治をめぐる世論の動向を見ると、そもそもデモクラシーの社会において、きちんとした大局観や総合力をもつ人材育成をあたかも必要としないような風潮が強まっている。
 大臣や知事のなかには、テレビを中心とするマスメディアを通して市民から熱狂的な「支持」を受ければ、発言内容や政策選択の当不当を問わずに、いかなる批判からも免疫だと考える者もいるらしい。 しかし、こうした主張を見ていると、政治指導者として世論をバランスのとれた方向ヘ冷静に導こうとする大局観や歴史観の軽視と、その基礎にある体系的な知や教養の欠如を感じる場合もある。しかも、構造改革について働く市民に強いる痛みに疑念を呈することはむろん、無責任な発言を繰り返し組織の統率力を欠如した大臣を批判することも、政治改革を優先させる以上抑制されるべきだという風潮も蔓延している。デモクラシー社会におけるこうした状況を、政治ポピュリズム(大衆迎合主義)と呼ぶ識者がいるのも故なきことではない。

 小泉政権の「支持」にまつわる政治ポピュリズムは、戦後の日本が培ってきた教育ポピュリズムが臨界に達した点と無関係ではない。教育ポピュリズムとは、子どもの能力や資質を無視して平均化する公教育を理想とする考えから生まれた。最近いわれる「ゆとり」は、子どもを大衆として平均化する教育ヘの媚びに他ならず、教育ポピュリズムの最たるものであろう。
 問題は、京大の竹内洋氏も新著『大衆モダニズムの夢の跡』(新曜社)において強調しているように、教育ポピュリズムによって「知識無用で、教室はただの井戸端会議になってしまう」危険があることだ。それどころか、教育ポピュリズムの「成果」が学校から社会にまで拡散してしまった結果、政治ヘの関心もポピュリズムの形をとるようになコたといえよう。たしかに、世の中では教育の個性化や創造的才能教育の推進に反対する人は少ない。とくに、芸術家や歌手やスポーツ選手といったスぺシャリストの人材教育が問題になることはない。
 しかし、それ以外のゼネラリストの人材教育はことさらに厳しく批判されてきた。プロ野球や音楽の道に進む子どもの才能教育は奨励されるのに、学習や思考力の積み重ねという試練をくぐる成績優秀者が「受験エリート」にすぎないと冷笑されるのはバランスを欠いているだろう。

 必要なのは、芸術家やスポーツ選手とならんで、経営者や政治家や官僚として社会に責任をもつべきゼネラリストの人材教育が無視されてきた理由をさぐることである。昨今の官僚の不祥事は、日本社会が過度に平均的な大衆教育を求めたために、アメリカやフランスと違って、本物のゼネラリストを育てる覚悟を制度や気構えとして欠落させてきた歴史と無縁ではない。いや、そもそも竹内氏も語るように、ゼネラリスト・エリートをめぐる議論さえタブー視されたのは、エリート教育は教育ポピュリズムにとって「天敵であり、タブーである」からなのだ。教育ポピュリズムは、国民的合意という名における大衆感情によって勢いを増し、アマチュア評論家によって増進されてきた。しかも、アマチュアを自負する人たちが身の回りの生活体験をもちだすと、専門的議論をしていた識者さえ理由なく迎合するような雰囲気がいつのまにやら出来上がってしまった。勤労感覚をもたず社会人としての訓練を受けないアマチュアであることを、社会的発言に際して特権としてふりかざす根拠はどこにもない。
 「主婦感覚」といった私的空間の限られた経験をストレートに政治などの公的空間に結びつける奇妙さは、家庭の団欒をそのまま電車やホテルなどの社会的空間にもちこんで他者の迷惑をかえりみない日本独特の風土と結びついている。

 この「過剰性をおびて構築された大衆感情」(竹内氏)こそ、昨今の政治ポピュリズムを生み出す土壌なのである。芸能界感覚の茶のみ話やゴシップがそのまま政治に結びつく危険をたしなめる評論家は少なく、わけもなく迎合する野党の政治家さえ多いのは寒心にたえない。問題は、孔子が論語で述べたように、「思って学ばざれば殆うし」、自分で勝手に思案するばかりで教えを謙虚に仰がないと独善に陥るかもしれないという点にあるのだ。政治ポピュリズムの怖さは、大衆的な人気に頼るあまり、政策内容の吟味を怠り、政策実現の下支えをする官僚や民意の反映である国会の意思を軽視する政治を許容してしまう風潮を生み出すことにある。しかし、大衆的な人気とは空気にも似たものであり、その風向きも移ろいやすい。
 政治の結果責任のとり方において、ポピュリズムとデモクラシーは異なる。大量の失業や倒産といった痛みを伴う改革が自分を直撃したとき、ポピュリズムの熱は急速に醒めるであろう。その時、ポピュリズムに酔った人びとこそ、最大の痛みを感じるはずである。本質的にいえば、改革の痛みはポピュリズムを支えた市民たちが担うべきものだろう。自己責任こそが、デモクラシーに問われることを忘れないのであれば、熱狂的な市民が政治ポピュリズムにひととき酔うのも当分は仕方がないというべきか。